2008年12月14日

世界史はモンゴル帝国から始まった「韓国のテレビドラマ」宮脇淳子

岡田宮脇研究室



 世界史はモンゴル帝国からはじまった


岡田英弘・宮脇淳子共著で、月刊『ぺるそーな』に連載中です。
過去一年間のすべての記事は、『ぺるそーな』のホームページから読むことができます。





宮脇淳子
「韓国のテレビドラマ」 ぺるそーな 2008年12月号 66-69頁



(冒頭の数ページ略)
原文は、こちらPDFなのでPCが停まることがあります要注意です


今の中国東北部から北朝鮮にかけて、かつて高句麗という国がありました。
紀元前三七年頃に誕生し、日本の天智天皇の即位と同年の六六八年に、唐と新羅の連合軍に滅ぼされた国です。


この高句麗に題材を取った韓国のテレビドラマ、「朱蒙(チュモン)」と「太王四神記」が、日本でも最近放映されて評判になりました。


ある会で、在日韓国人の医者が宮脇に、「朱蒙」を見て初めて自国の古い歴史を知って感激した、と言うのです。

彼は同時に、韓国大使館の人に聞いたら「そのまま信じてはいけない」と言われた、とは言っていましたが、
何が問題かといって、こういうことです。



高句麗の始祖と言われている伝説上の人物、朱蒙(チュモン)を主人公にしたこのドラマは、
夫余(プヨ)や玄菟(ヒョント)城など、
漢籍に残る固有名詞を巧みに利用して、高句麗の建国を語ります。


主人公の大望は、大帝国である漢に対抗して古朝鮮を復興することで、
皮革に描かれた古朝鮮の地図を広げて見せる場面がたびたび登場します。

地図は、中国東北地方はもちろんのこと、今の南京あたりまでが古朝鮮の領域として色づけられているのです。


古朝鮮とは何かというと、これは、秦の始皇帝の中国統一以前に、
朝鮮という大帝国が存在したという伝説にもとづいています。


もちろん、史実ではありません。


朝鮮半島で書かれたもっとも古い歴史書は、
当然のことながら漢文で書かれていて、一一四五年に成立した『三国史記』です。



この書物では、紀元前五七年に新羅が建国されたところから話が始まり、
そのあと紀元前三七年に高句麗建国、紀元前一八年に百済建国がつづいて三国並立となり、
やがて新羅が高句麗と百済を滅ぼして半島を統一します。



ところが、じつは高句麗がもっとも歴史が古く、そのつぎに開けた国は百済で、新羅は最後なのです。


どうして高句麗の建国よりも新羅の建国をまえに持ってくるかというと、著者の金富ふしょく軾(一○七五〜一一五一)が新羅王家の一員だったからです。



わが国の『日本書紀』は、これより四二五年も前の七二○年にすでに成立していましたが、
そこでは紀元前六六○年に神武天皇が即位したと記しています。


これに対して『三国史記』は、紀元前五七年に新羅の建国を持ってきて、それ以上さかのぼらせることはしませんでした。
そのわけは、紀元前一○八年、漢の武帝が朝鮮半島を直轄地としたからです。



武帝のあとを継いだ昭帝が、紀元前八二年に半島南部を統括していた真番郡を廃止し、
このときから、のちに新羅王国が興る慶州方面が中国の直轄地ではなくなりました。



それからあとの最初の甲子の年、つまり六十干支の最初の年が紀元前五七年なのです。


著者の金富軾は、可能な限り古い時代に新羅の起源を置こうとしましたが、
中国皇帝の権力が直接およんだことのない日本列島とちがって、中国を意識せざるを得ない朝鮮半島では、
これが技術的な限界だったわけです。
といっても、新羅が実際に王を持つのは四世紀のことですから、五百年はさばを読んでいます。




ところが、これから百年後の十三世紀になって、一念(一二○六〜一二八九)という坊さんが『三国遺事』という本を書きました。

このなかに、檀君(タングン)という朝鮮の建国の王の神話が登場します。このような物語です。



「『朝鮮古記』によれば(もちろん、このような書物はなく、一念の創作です)、桓因という天帝の庶子である桓雄(ファヌン)が
人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を三つ与え、
桓雄は太伯山(今の白頭山または妙香山)の頂きの神檀樹の下に降り、
そこに神市という国をおこし、人間の地を三百六十年余り治めた。



その時、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、
桓雄は、ヨモギ一握りとニンニク二十個を与え、これを食べて百日の間、太陽の光を見なければ人間になれるだろうと言った。



虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、
熊は二十一日目に女の姿になった。


しかし、配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、
桓雄は人の姿に身を変えて、これと結婚し、一子を儲けた。

これが檀だんくん君王倹である。



檀君は、堯ぎょう帝が即位した五十年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。


以後千五百年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕きし子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。
一九○八歳で亡くなった。」



二○○七年に韓国で制作された「太王四神記」の第一回、
神代の話として、虎族と熊族が殺し合い、
ヨン様ことペ・ヨンジュンが演じる桓雄の愛を、
熊族の女が勝ち取る話は、この『三国遺事』にもとづいています。


ドラマはこのあと二千年後の、実在の高句麗広開土王(好太王)の話に移るのですが、
全編ほとんど史実ではなく、ファンタジーでした。




ところで、北朝鮮の金日成主席が一九九四年に亡くなる前年の九三年、
北朝鮮の平壌市江東郡の大朴山で、檀君の墓が発見されたという報道がありました。



墓のなかには、身長が三メートルくらい、玉のように白くて美しい、
巨大な人骨があったということで、
北朝鮮では「電子常磁性共鳴法」という特殊な分析をした結果、
五○一一年前の骨と分かったので、檀君は実在の人物であったとして、
コンクリート製の檀君陵を建設しました。


つまり、中国五千年よりも、朝鮮民族はさらに古い歴史を持つという主張です。


どうせ北朝鮮のすることだから、と日本人はこれを真面目に考えようとはしませんが、じつは韓国も似たようなものなのです。


韓国ではじつは、独立後の一九四八年から一九六一年まで、檀君即位の年を西暦紀元前二三三三年とし、
これを元年とする檀紀を使用していました。




一九六一年末、朴正熙が年号廃止の法令を制定して以来、公式な場での使用は禁止されて、今では公文書では西暦が使用されていますが、檀紀に未練を持っている人も多いのです。



これは明らかに、紀元前六六○年に始まる日本の皇紀に対抗した概念で、中国の黄帝即位紀元と同じです。



どちらも、日本よりは自分たちの方がずっとずっと古い、と言いたいわけです。


現代の日本人は、学校教育では建国神話も教えられていませんし、
史実としてさかのぼることができるのは、
邪馬台国の女王卑弥呼くらいまでであることを知っています。

女系天皇を認めるわけにはいかない、という論争でも、
『日本書紀』の言うように、本当に紀元前六六○年の神武天皇から万世一系の天皇を戴いてきた
と考えているわけではないでしょう。

それでも日本列島には四世紀には倭王がおり、
七世紀には日本国と日本天皇が正式に誕生し、
それ以来の天皇が男系で継承されてきたのは史実ですから、
古代史に関しては自信があります。

中国や韓国が何を主張しても、日本は関係ないと思っています。


ところが、現代の韓国にとっての古代史は、われわれ日本人が想像できないほど深刻な問題なのです。

中国社会科学院は、中国東北部の少数民族の歴史研究プロジェクトを
二○○二年より開始していましたが、二○○四年、北京政府は、高句麗は自国の地方政権であると発表し、
韓国から激しい反発を受けて、外交問題に発展しかけました。

高句麗が、中国と韓国の両方にとってゆずれない歴史認識問題である理由は、
本拠地が今の中国東北地方にあり、そこから南に発展して平壌に都を置いたからです。




二○○六年に「朱蒙」が韓国で制作されたのは、
このような背景があったからでしょう。

全八十一話のこのドラマは、最高視聴率が五十三パーセントに達したということです。


ドラマをご覧になった方にはよくわかると思いますが、
高句麗は、もともと夫余から分かれたのです。
夫余は、松花江中流の平原、つまり旧満洲北部を本拠地としていました。


高句麗は、東南方に移動を重ねて長白山(朝鮮では白頭山と言います)の西麓に達し、そこで初めて国造りをしました。

はじめは玄菟郡に属していましたが、やがて独立し、三二年には、後漢の光武帝から高句麗王国として承認されました。


これより高句麗は、玄菟郡を攻め、遼東郡、遼西郡を圧し、遠く長城地帯まで侵略を試みることもたびたびでした。



しかし、帯方郡をつくった公孫康は、二一○年に高句麗に壊滅的打撃を与えましたので、
高句麗は二分されて、主流は南遷して鴨緑江岸に出て、二度目の国造りをしました。
その地が、有名な好太王碑のある輯しゅうあん安(丸都城)です。


その後二百二十余年を経た四二七年、みたび中心を南に移して半島に入り、古の楽浪郡の中心地である平壌を国都としました。

このあと二百五十年たった六六八年、唐と新羅の連合軍によって、その国は滅びました。





四一四年に建立された高句麗好太王碑には、「始祖であるチュモン王は北夫余から出た、天帝の子、母は河伯の女郎」とあります。

ドラマでも主要人物だったチュモンの母ユファ(柳花)夫人は、
河伯(=水神)の娘だったのです。
チュモンの王妃ソソノ(召西奴)の名も、その父ヨンタバル(延陀勃)の名も、『三国史記』に登場します。


ドラマの最終回、王子ユリ(瑠璃)が高句麗王を継承することになり、
父違いの兄二人、ピリュ(沸流)とオンジョ(温祚)は、
母ソソノ王妃に連れられて高句麗を離れ、やがて弟のオンジョが百済国を建てるのですが、これも『三国史記』にある通りです。



百済の伝承に「系譜が夫余に連なるので、氏の名を扶余とした」とあります。


テレビドラマは、このように史実を巧みに入れ込みますが、
衣裳の豪華さや、漢軍に圧勝する鉄騎軍の装備など、
史実と言えるようなものではまったくありません。


ただ、そのように、エンターテインメントとして割り切ることができる方が、歴史事実と思いこむより実害は少ない、と私たちは考えます。



最後につけ加えますと、二十世紀初めまで中国ではなかった旧満洲、
つまり今の中国東北部と朝鮮半島を一つながりの地域と考え、
広い視野で実証研究を始めたのは、戦前の日本の学者たちです。


朝鮮史に関しては、岡田の先生である末松保和(一九○四〜九二)学習院大学名誉教授が礎を築きました。


末松先生は、戦前の朝鮮総督府で『朝鮮史』などの編修事業に従事し、一九三三年から京城帝国大学法文学部助教授、三九年に教授になりましたが、敗戦にともなって帰国し、戦後は学習院教授に招聘されました。

現在、中国と韓国が歴史論争をしている根拠は、じつはほとんど、日本人の研究が出所なのです。

















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